第39回卒業生御寄稿「C’est la vie ?!(セラビ)」

第39回卒業生
前田 重信
prologue(高校時)
確か私の記憶では卒業当時、約20名程度が医学部へ進学、周囲に医学部を志す人が多く、つられて医師の道を選択。(小耳に挟んだ、ある大学の報告では福井県内高校出身者が毎年60名程度医学部に入学するらしい)
episode1(大学卒業後)
大学卒業後は福井県内の公的医療機関で診療科にとらわれずに診療、自分の希望というより、需要に応える形での診療の日々でした。地域では特に消化器系、整形疾患が多く、バブル景気の余韻を残し、まだ人口増加で眠らない夜の医療に対応すべく24時間戦う救急医療でした。ドンペリ一気飲みで高級ブランドバックを持った急性アルコール中毒患者にも対応していました。(最近の急性アルコール患者はバブル期若者であった方々が多く、最近の若者はあまりお目にかかることはありません)
episode2(30代)
日本テレビバンキシャでER紹介
バンキシャスタッフの2ヶ月に及ぶ密着取材でTV視聴率は19.8%でした
私がまだ30代の頃、福井の救命救急センター(ER)の日常診療を出勤から帰宅、OFFの日も年末年始まで密着取材し地方の救急医療の実際を報道していただいた。その中のインタビューでやりがいを問われ、「不安な気持ちで来院されにっこり帰る姿を見ること」、「人の命を救う手伝いをしているというか病気を治す手伝いをしているというか重責である分やりがいがある」と語っていました。
episode3(40代)
パリ留学
福井県内の救命救急センターで働いておりますがほぼ県内でしか医療活動をしていなかったため上司より海外に留学してこいと言われました。そこで北米などのERを見てこようとも考えましたが福井県は原子力発電所の密度が世界一であり放射線被ばく医療の先進地であるパリにあるフランス国防省の病院に留学することになりました。そこでは実際にフランス人以外の外国人としては初めてプルトニウムに汚染された外傷患者の治療に携わることとなりました。また別の病院ではフランスの救急システムやドクターヘリの同乗等も行いました。

その際、家族を引き連れパリでしばらく生活しました。その後の人生にかなりの影響を及ぼすことになります。

episode4(40代)
東日本大震災
2011年3月11日地震後まもなく知事より命令が下り同日福島に向かいました。
出発の時我が子の中にはテレビ放映される津波の様子の現場に行くことに泣く子、また現場から帰ると近寄ろうとしない我が子に災害の大きさと同時に家族の絆を感じました。福島第1原子力発電所事故ではフランス留学やアメリカで研修を受けた放射線被ばく医療の知見が役に立ちました。

Jヴィレッジにて、福島第1原発内にある救急室ERに向かうときの様子
episode5(50代)
学会開催
2024年12月には日本救急学会中部地方会を開催し多くの協力のもと、地元福井で開催し、約700名以上の参加となり、盛況でした。救急医療ERの過去現在未来をテーマにし、未来に向けて今後の救急医療のあり方を考えるよい機会となりました。

epilogue(〜現在)
そば会
毎年年末、自宅にて丸岡産の新蕎麦を使い蕎麦打ち会をしております。最初は福井に他県から研修等に訪れた医師たちが即席麺で年越するのが可哀想で自宅で実演を兼ねて蕎麦打ち体験をしてもらいながらの食事会でした。最近ではいつのまにか、みどりばプチ同窓会になっております。高校の時の絆が今も引き継がれ、時代と共に変化しながら歩んでおります。
